サッカー選手の小松原学の経歴&プロフィール!海外でのサッカー普及活動に感動!

8月25日の「消えた天才」で

稲本潤一が衝撃を受けた天才は飛び級で日本代表入りした後、突然消えた…

とされ元プロサッカー選手の小松原学さんが紹介され、話題になっています。

小松原学さんは高校生でありながら、ベルマーレ平塚と契約をし、その後17歳でJリーグ最年少デビューをした、間違いなく天才サッカープレイヤーです。

もちろん僕も、当時とんでもない選手が出てきたぞ!と将来の活躍にワクワクしていました。

今回はそんな小松原学さんの経歴プロフィール、現在の活動についてご紹介していきます。

 

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サッカー選手の小松原学の経歴&プロフィール!

それでは早速ご紹介していきます!

小松原学さんの経歴は、18歳までが特に衝撃的です。

 

小学生のことには当時在籍していた地元のサッカーチームで全国大会に出場します。

その後はベルマーレ平塚ユースに在籍しながら、中学生時代に日本代表に飛び級で選ばれます。

この時には高原直泰さんや小野伸二さんと共にプレーをしています。

そして高校生になるとすぐに、プロの出場もできる二重選手登録を行います。

1998年には高校生ながらもJリーグデビューを果たしたことで注目されましたね。

現在では更新されてしまいましたが、当時最年少でのJリーガーが誕生し話題になりました。

当時チームには中田英寿、呂比須ワグナーなど有名な選手が多く在籍していたこともあり、メディアでとても注目されていたので、覚えている方もいらっしゃると思います。

小松原学さんは、その当時、自分のことを最高の選手と思っていて、気に入らない選手に対してラフプレーを仕掛けるのが当たり前だったと話しており、自分でも思い出すと苦笑いするほど生意気な選手だったようです。

まあこれだけの実績を残していれば、生意気になってしまうのもしょうがないかなあと思ってしまいますね。

 

1998年には経営母体の破綻でチームが主力選手を大量放出。

湘南ベルマーレあるある

小松原学さんは主力選手としてのチームを引っ張る役割を託されますが、若干19歳の若さ。

周りの強いプレッシャーに潰されてしまい、スランプに陥りさらには、怪我にも泣かされ最終的にはチームを解雇されてしまいます。

2004年にはJFL昇格を決めたアマチュアクラブのFCホリコシに在籍するも、自身の怠慢、コンディション不良、真剣味のなさなどが影響し、序盤は通用していたものの、徐々に苦戦を強いられるようになります。

個人的に感じたのは、注目され、活躍し始めたのが若すぎたため、小松原さん自身も話していたように人間的に未成熟だったことが大きな理由だったのではないかと感じました。

 

結局、度々の怪我に泣かされて7年でプレイヤー人生に終わりを告げます。

プロ選手なので関係ないと思いますが、それでもあれだけ若い頃活躍してきた選手が、24歳という若すぎる引退は残念に思いますね。

 

小松原学、若すぎる引退からのセカンドキャリアは?

小松原学、若すぎる引退からのセカンドキャリアは?

 

引退後すぐに、医者になりたいと思っていましたが、お金がないことと、勉強にも自信がなかったため、3年の勉強期間を経て柔道整復師の資格を取得します。

小松原学さんはJリーガー時代にした怪我で復帰をしたものの、骨折の見落としがあって、それが後々に見つかり、1年かかって両足の手術をした経験があります。

柔道整復師は骨折も見ることがあるため、それがきっかけで目指したようです。

しかもその2年後には、仕事がうまくいかなかったら、薬局で働こうと思い、その保険のために医薬品の登録販売者の資格も取得しています。

意外とちゃっかりしていますね!

そんな保険への思いとは裏腹に、2012年に開業した「Pass鍼灸整骨院」は徐々に軌道に乗り始めます。

群馬で梅沢富をさんを診たことがきっかけで口コミが広がり、アイドルグループやケツメイシなどのトレーナーになったそうです。

かつて気に入らない選手にはラフプレーをしていた生意気な少年は、人の縁や恩義を知って人気整体師になりました。

 

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元サッカー選手の小松原学の海外でのサッカー普及活動に感動!

2011年にサッカー後進国である、モンゴルの子供達にサッカー支援をしようと、モンゴル行きを計画していました。

しかしその最中、未曾有の大災害、東日本大震災が起こりました。

その時には、友人の元へと行きたい気持ちから、モンゴル行きの計画を断念しようと考え、被災地の友人にそのことを伝えると

「被災地が今こんな状況では、来てもらっても何もできない。せめて明るい話題だけでも俺たちにくれ。だから、モンゴルの子どもたちに、サッカーを教えに行って来い」

という言葉をもらい、申し訳ない気持ちはありながらも、その言葉が原動力となり、モンゴルへと向かうことにしました。

そしてモンゴルではプレー技術だけでなく、体のケアや、けがの手当など、メディカル部分の知識も教え、現地の人たちとの信頼関係も築けたようです。

現地では、新聞社からの取材や感謝状をもらうなど、大変感謝されたようですね。

本心では被災した仲間が心配でしょうがなかったと思いますが、そんな仲間へ明るい話題を届けようと必死でモンゴルした姿に感動しました。

今後何年か後にW杯で、モンゴルが躍進してきたら、まさしく小松原学さんのおかげだと言えると思います。

 

そしてモンゴルから帰国すると、被災した石巻市と女川町へと向かいます。

被災地へ着くと、その状況に唖然としたらしいですが、そんな中でサッカー教室を開くことにもためらいがあったそうです。

そんななんかで、子供達が100人近く集まり、元気のなかった子供達も、サッカーをしている間笑顔になってくれました。

さらにはその光景を見た被災者の方も、子供達の笑顔が観れたことを感謝してくれました。

非常に恵まれた才能を持ちながら、怪我の影響で短い選手生命でしたが、ご自身の経験や知識を活かしての活動を行なっていることを知り、大ファンになりました!

群馬県へ行った際にはPass鍼灸整骨院にお世話になりたいと思います!

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最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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