テレビ番組、マラソン・グランドチャンピオンシップにて工藤一良さんの特集が組まれ話題になっています。
工藤一良さんとはマラソンの五輪代表をめぐる曖昧な選考システムにより、翻弄された選手の一人です。
今回はそんな工藤一良(くどうかずよし)さんの経歴&プロフィールや、現在、エピソードをご紹介していきます!
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工藤一良の経歴&プロフィールまとめ!実業団に入るきっかけも!
それでは早速ご紹介していきます。
のちに名選手となる、工藤一良さんは高校時代から本格的にマラソンに取り組み始めました。
実家はりんごや、さくらんぼを生産する農家です。
地元の農業高校に通いながら、農業について学びながらも、マラソンを始め、徐々にマラソンへの情熱が高まってきます。
そんな高校時代には全国高等学校駅伝競走大会に出場し高校3年生の時には、区間賞を獲得するなどし、頭角を現します。
父親からは、家業である農業を手伝うよう言われていたようですが、工藤一良さんとしては、走るのが楽しくて仕方がなかったと思います。
その後一定の実績を残すことのできた工藤一良さんは、多くの大学から誘いを受けることになります。
しかし、本人としては自分で稼ぎながらマラソンをしたいという思いから、大学への誘いを断り、実業団へと進みます。
これが実業団へ進むきっかけでした。
大学に入学すると、お金がかかりますから、農業の手伝いをせずに、マラソンをさせてもらっているにも関わらず、そういうわけにはいかないと考えたのではないでしょうか。
そんな実業団時代には、タイムが伸びず悩んでいた時に実家に電話して、お母さんに
「記録が出ないから、やめて帰る」
といったようです。
お母さんは、高校を卒業した時、夜行列車で地元を離れる際に、見送りの際には涙を流して泣いていたので、てっきり
「帰ってこい」
と言われると思っていたのですが、
「負け犬のまま帰ってくるな」
と叱咤激励を受けることになりました。
お母さんの本心としては、帰ってきてほしいところだと思いますが、息子のために心を鬼にして厳しい言葉をかけたのだと思います。
工藤さんの中で、それまではどこか覚悟が足りていなかった可能性もありますね。
その言葉にいい意味でショックを受けた工藤一良さんは、両親を喜ばすために頑張ろうと、必死で取り組み始め、徐々に成績を伸ばしていきます。
実現しなかった、工藤一良と瀬古利彦の直接対決
ソウルオリンピックへの切符を手に入れる事実上の一発勝負と考えられていた福岡国際マラソンにて、夢をかけて挑む工藤一良さんでしたが、優勝候補の瀬古利彦さんが怪我で欠場してしまいます。
そんな中、工藤一良さんは会心のレースを見せ見事3位でゴールします。
しかし、その後日本代表への内定の連絡が来ることはありませんでした。
もやもやとした気持ちの中で、工藤一良さんは、もう一つの選考レースとされているびわ湖毎日マラソンに瀬古利彦さんが出場されることを知ります。
そのことを知った工藤さんは、びわ湖毎日マラソンで直接対決をしたいと、監督に申し出ます。
福岡国産マラソンからわずか3ヶ月後の大会出場は、体の負担が大きいにも関わらず、出場しようと思った理由は、国際マラソンで3位以内に入ったものの、代表入りできなかったことから、もはや瀬古利彦さんに直接対決で勝つしかないと考えたようです。
しかし監督は出場を認めてくれませんでした。
おそらく大会出場まもない状態でのコンディションや、体への負担、そしてもし負けてしまったら、完全に代表への道が閉ざされてしまう工藤一良さんを思っての優しさだったのかもしれませんね。
オリンピックで終わってしまってもいいというのであれば、直接対決をして、勝ち負けをはっきりさせても良かったと思いますけど…
どれだけ考えてみても正解は見えませんね。
そしてびわ湖マラソンでは瀬古利彦さんが優勝し、三人目の日本代表として工藤一良さんではなく、瀬古利彦が選ばれることになりました。
その選考結果に対して、世論に賛否両論が巻き起こり、瀬古利彦さんへの嫌がらせも多く、自宅にカミソリが送られてきたり、脅迫電話があったようです。
そのためオリンピック前には、体と心のバランスを崩してしまい、オリンピックでも満足のいく結果を残すことはできませんでした。
選考委員会としては瀬古利彦さんの実績に配慮した形にはなりましたが、結果を見てみると、誰も得をしないような形になってしまいました。
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工藤一良の教え子に伝える指導者として思いに感動!
工藤一良さんは練習中の怪我が悪化し、30歳の若さで引退を決めます。
そして現役最後のレースに選んだのは、かつてオリンピック出場をかけて挑んだ福岡国際マラソンでした。
怪我が完治しない状況で出場し、全盛期とは程遠い走りで21位でゴールしました。
おそらく良い結果が出ないことはわかっていたと思うのですが、自分の中でけじめをつけたかったのではないかと思いました。
引退後には日産自動車、しまむら、日清食品でコーチを務められ、日清食品ではニューイヤー駅伝の優勝に2度、指導者として大きく貢献しました。
工藤一良さんは、命をかけて挑んだオリンピック出場のチャンスを紙一重のところで、逃してしまいました。
地元青森から出てきて、叱咤激励をしてくれた両親を喜ばすために必死で取り組んできました。
その悔しさといったら並大抵のものではなかったと思います。
普通の人だったら、そこで腐ってしまう人がほとんどだと思います。
しかし、工藤一良さんの場合はその悔しさがあるからこそ、色々と考えて指導ができたと話しています。
そして自分と同じような悔しい思いをさせないように、選手たちに声をかけて思いを伝えています。
僕であれば、悔しい思いをした段階で腐ってしまって、前向きになることも難しいと思ったので、とても強い方だと感心してしまいました。
おそらく今後も工藤一良コーチの元から世界で戦うランナーが、多く輩出されると思いますので、応援していきたいと思います!
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